日記

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tagiさん

2018/4/27 10:45

レビューありがとうございます

 私の好きな作品の中で「生きるように生き、死ぬように死ぬ」と胸に抱いて一生を駆け抜けた主人公の物がありました。死とは全ての終わりではありますが、人生においてとても大切な区切りでもあると思います。思えば横島君はゴーストスイーパーの助手として死にきれなかった者達と関わりを持ってきました。そして世界の死、多くの死を超えてこの物語が始まったのだと思います。その結果、横島君自身は区切りを得られなくなってしまっている様に思えます。極論ではありますが良き死を迎えるには良く生きなければいけないのでしょう。だからこそ横島君は自分が届かなくなった良き区切りをお嬢さん方が迎えられる為にも現在を思い切り楽しんでもらい、その隣にいるのかもしれません。GS世界で置いて行かれた彼はネギま世界でも何時か置いていかれる事を想定している気もしますし、お嬢さん方を置いていかれる側に巻き込みたくもない気持ちもあるのでしょう。この物語で横島君に訪れる区切りが置いていかれる時なのか、誰かが置いていく側になってしう時なのか。そんな事を考えてしまったお話でした。

ここから返信です

区切りという意味では横島は納得のいく区切りは迎えられなかったのでしょう。

もしかすると心のどこかで今も区切りを探しているのかも。

少女達との関係もそこは影響してますね。

置いていかれる側の気持ちは嫌というほど理解してますしね。

少女達には同じような思いを味合わせたくないとの気持ちはあるかと。

ですが横島も少女達も一歩ずつ進んでます。

区切りを付けて、みんなで笑顔で前に進む。

そんな話を書きたいですね。


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 世界を形作る構造に関してひどく乱暴で大雑把な分け方ですが、西洋での四大精霊と東洋の五行相生五行相剋の考え方の違いが今話での高畑氏と超嬢の会話の中に潜んでいる気がしました。四大は地水火風が存在するだけという印象に対し、五行は廻り相生相剋という互いに生み出し打ち消す流れがあります。そんな世界の構造に対する考え方の違いが魔力に対してのスタンスの違いに現れているのかもしれませんね。
 手元に与えられた鍵となる品。それをどの様に使うかは自身の心に任せるしかないと。過去へ戻ってしまえば現在の自分の心を踏み躙ってしまいますし、それは変化した、変える事ができたという事実を無かった事にしてしまうのと言える気もします。失敗してもやり直せるのが学生の特権ですが、そのやり直し方に成長が現れるのだと思います。その成長を高畑氏や学園長は見たいのかもしれませんね。

ここから返信です

確かに超鈴音は西洋の四大精霊の思想に近いかもしれませんね。高畑の考えは五行相克に近いですね。

高畑は詠春や近右衛門に横島と近いですからね。世界を超鈴音より大きなスケールで見ているのかも。

鍵となる物をどう使うか。

結局物に善悪はないですからね。

超鈴音には早い段階でやり直す機会を与えたいのかもしれません。

高畑にしろ近右衛門にしろ。ここで超鈴音のたしかな成長は見たいでしょうしね。


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 子供の頃に見た世界ってどこもかしこも大きかった記憶があります。大人になってから同じ場所を見てみると想像以上に小さく感じて驚いたりした経験は多くの人が覚えがあるでしょう。世界が小さくなったのか、自分が大きくなったのかは別としても、その広大な世界で子供は親の背中を追いかけ、手を繋いで引っ張ってもらい世界を知っていきます。祭りの最中といういつもと違う世界の中で親と逸れてしまった心細さは子供にしか判らない恐怖でしょう。そんな時、親とは正に帰るべき場所なのでしょうね。
 タマモ嬢にとって血の繋がった親家族は望むべくもなく、横島君に受け入れてもらってからはその傍で少しずつ居場所を作ってきたのだと思います。同じく帰る場所が無いといっても過言ではない明日菜嬢とは互いが互いに帰るべき場所となり始めているのかもしれませんね。

ここから返信です

こどもの頃に見えた世界と大人になって見えた世界って違いますね。

大きくて広くて、刺激でいっぱいだった気もします。

ただその分、親とはなれたりすると怖くなるんですよね。

帰るべき場所。一緒にいるべき人。

ちょっとした手助けをするのは気持ちがいいですね。

帰る場所や一緒にいるべき人は必ずしも血のつながりだけではないですから。

タマモと明日菜は確かに共に帰るべき場所になりつつあるんだと思いますね。


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 街全体を使った鬼ごっこや隠れんぼは仕掛けなどを用意しれば見ごたえのあるイベントになりますからね。これがダルマさんが転んだだったら、言葉の区切りの度にゲームの範囲内で擬似的時間停止が発生したりするかもしれませんね。スピーカーで流れるダルマさんが転んだとピタリと止まる人々。すごいシュールな光景を妄想してしまいました。
 どんな事をしていても記憶に残れば思い出とはなるでしょう。ですがその思い出を輝かしい物にするには作っている間に全力で磨かなければいけないのだと思います。思い出になってからは磨きようがないですからね。タマモ嬢を筆頭にお嬢さん方は現在進行形で記憶に残るナニカを磨き上げているのでしょう。中学最後、横島君の存在は磨き粉といった所でしょうか。何時か将来に互いに磨き上げた思い出を語り合う姿が見られるかもしれませんね。

ここから返信です

かくれんぼも仕掛けやルールを決めると楽しめる気もしますね。

だるまさんが転んだもいいな。来年の麻帆良祭はそれかな(笑)

想い出は美化しますが、後から耀きが変わる訳じゃないんですよね。

本当に磨けば磨くほど想い出の耀きは変わらない気がします。

特に十代の想い出の耀きは一生の宝物です。

いつか、一緒に想い出を語り合う姿書いてみたいですね。

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